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これは本当の話です。私の父は1945年8月6日、広島(*19)で被爆しました。

父は被爆について多くを語りたがらないので敢えて詳しく聞くこともなく、「登校途中で被爆、大やけどをし、きゅうりで直した」、と言うことくらいしか知りませんでした。被爆後50年経過して、やっと父は原爆被爆の記録を書き残そうと決心しました。私はその記録により父の被爆の詳細・現実を知ることができました。

父は長い間多くの方々から被爆の記録を残しては、と再三薦められていましたが、原爆投下後50年にしてやっと記録を書くことにしました。私はその記録を読み、2000年に英訳、被爆記録原本と、その英訳をロンドンにあるImperial War Museum 王立戦争博物館、ワシントンDCにあるSmithsonian’s National Air and Space Museum スミソニアン国立航空宇宙博物館、そして国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に進呈・保管を依頼しました。この記録にご興味のある、どなたにも読んでいただけるよう、このサイト abombhiroshima.wordpress.com で公開することにしました。

歴史は繰り返される、とよく言われますが、それは私たちが真実に眼を背けるからだと思います。真実を知り、真実を明らかにし、犯した過ちを学び、間違いを認識する必要を痛感し、私は父の記録を英訳する義務に駆られました。

誰が悪者かと言うならば、それは「戦争」です。アメリカ合衆国が広島と長崎に原子爆弾を落としたのは事実ですが、戦争は想像を絶する不幸と損失を人類に与え、人類の滅亡さえ起こし兼ねないことを自覚すべきです。

父は原爆被爆一番重症とされる、被爆者認定証一級を受証しています。母もまた原爆に会い、被爆者認定証二級を受証しています。戦時中、母達は学徒挺身隊として勉強の代わりに工場で軍需生産の一翼を担い、何のために使用されるものか、さっぱりわからないままネジやノブの生産に駆り立てられていました。原爆投下の翌日、負傷者介護のため先生の指示により広島市内に入りました。当時はそれが原爆であるかも分からず、それが如何に危険な行動かも分からず、先生の言われるまま、沢山の被爆者が病院、学校に運ばれて来るのでその手当の手伝いをすることになりました。運ばれて来る人すべてが重症患者で、出血している人、やけどしている人、気の狂った人、死んでいる人で溢れていたそうです。こんなに大勢の死傷者を見たことはなく、修羅場でものすごく恐ろしかった、と母が話してくれた事を思い出します。被爆者介護のため介護に派遣された日、汚染された空気を吸った母は黄色い液体を吐き出したと聞いています。

親が被爆者であるため、私たち兄弟は被爆二世ということになります。幸いにも私たちは今も元気で暮らしています。が、原爆被爆の後遺症がいつ襲って来るか、常に不安に駆られます。何故なら広島市民が世界で初めて原爆を経験したわけで、被爆後遺症の確たる臨床例がないからです。でも、いずれにせよ、元気で生きる機会を与えられたことを神に感謝します。

後に父は仕事の都合でアメリカに赴任することになり、私たち家族は十年以上ロスアンゼルスで暮らし、私はそこで少女時代を過ごしました。現在、私は1996年ロンドンで働いており、ここの生活には慣れましたが、いまだにアメリカ発音で英語を話す、と言われます。私の兄も家族一緒にアメリカに赴任となり、ヒューストンとロスアンゼルスで十年近く、暮らしました。私たちはこのアメリカという国と、深い関係で結ばれているように思います。

アメリカで働くよう辞令が出た時、さぞ複雑な気持ちになっただろう、と思われ父はどんな気持ちになったか、聞いて見ました。父としては原爆のことは自分の記憶から抹消しようとしていたため、全然苦にならなかった、と話してくれました。ましてや今は、アメリカは父にとっては第二の故郷のように感じていると思います。

父にはやけどの跡が全くありません。それは驚くほど奇跡的なことです。実際、父の年齢にしては、顔のシワやシミも少なく、とてもきれいな肌をしている、と時々褒められますが、私も同感です。「きゅうり」はやけどに良く効きます。父のような大やけどをしたことはありませんが、ちょっとしたやけどに、他のどんな火傷薬よりも「きゅうり」が一番良く効く、ということは私の経験で実証済みです。

父の被爆体験記を読んでいただき、ありがとうございます。いつまでも、世界が平和と愛で満ち溢れることを願ってやみません。

小畠利子

recent photo of Dad in London

父がロンドンに会いに来てくれた時の写真です。