父の『記録』

八月六日、その日も雲一つない夏の太陽が照りつける暑い朝でした。下宿先である横川 (*2) の家を出ていつもの通学経路で十日市 (*3) に出た。市電の乗り換え場所である十日市で空襲警報が発令された。空襲警報発令中は市電も止まり、全てが避難体制に入る。暫くして空襲警報が解除され市電の運転も再開されたが電車は満員で乗れない。学校に遅刻しそうなので止むを得ず電車の車輪の軸受けの上に足を置き、窓枠につかまり、電車の外にぶら下ってやっとの思いで的場町 (*4) に着く。

途中ずっと警戒警報発令中だったが的場町に着く直前に解除され、家庭防護団の役員達も三々五々、詰め所より帰途についていた。学校の遅刻を気にしながら急ぎ足で大正橋 (*5) の方向に歩く。

軒先に立つ婦人が「飛行機が!飛行機が!」と甲高い声を上げて指さす方向、左斜方向に振り向くと傾角四45度位の位置にB-29の三角翼が朝日に照らされて銀色に輝いているのを見た。

三角翼の輝きが自分の方向に向かって急降下している様に感じ、45度の角度で急降下されれば丁度自分がやられるなと思った瞬間、暗闇に市電の架線が「スパーク」した様な強烈な光と同時に物凄い「パンチ」を顔面に受け、何とも表現の仕様のない痛さを感じ、「ワーッ」と両手で顔をおおい、しゃがんだ途端今度は物凄い爆風で体諸共道路際の家の玄関の中に叩き付けられた。玄関 (*7) の踏み石に胸を打ち付け、上からは下駄箱、障子等々。ペチャンコに押しつぶられた家の下敷きになり、息苦しく、身動きも出来ず、「ああ、これで最後か?」と死の恐怖におののいた事を憶えている。

その後どの様にして其処を這い出したものか、全く記憶がない。気が付いた時は道の反対側、川 (*6) の中で胸まで水に浸かっている。吾に返ると、息苦しさを憶え、鼻をかみ、口をすすぎ、耳を穿る動作を繰り返す。

何故息苦しくなったのだろうか?爆風により一瞬にして倒れた家々の壁土が体中の穴という穴、全てに爆風によって詰め込まれた為息苦しくなったものと思われる。又どうして川に這入ったのだろうか?暑さのために飛びこんだのか、一瞬にしてつぶれた家の玄関から這い出し、無意識の中に反対側に寄って歩いていて川に転倒してしまったのだろうか、さっぱり解らない。もちろん、その時点では周囲一面に土埃が立ち込めて一寸先も見えない状態であった。

土埃が治まり段々と周囲の状態がハッキリする頃、左手に垢がよれていっぱい付いているのに気づき、

「おかしいな、昨晩は風呂に入り今朝も顔を洗って何故垢がよれるのだろう。」

二~三度川の水で顔を洗うことを繰り返すが相変わらず前にも増して垢が手に付き、そのうちに頭の毛髪が焼けて「縮れ」た、のだろうか、垢と一緒に手の平にくっ付くではないか、なんとも不思議なこともあるもので、耳の後ろに手をやると後頭部半分くらい髪がなく、焼けているのである。そのうちに、首から上、左半分に何か異様な痛みを感じる様になる。川土手の石垣を這い上がり道に立った時、又もや自分の姿にビックリ仰天、服が「ボロボロ」に焼け「ゲートル」が八百足の足のように垂れ下がり、上衣は縫い目を残してワイシャツが露出、腰から下ゲートルの巻き上げまで「フンドシ」を残して素肌がまる見え、ちょうど硫酸か何かで焼けたような感じである。

周囲の家は一瞬にしてペチャンコに押しつぶされ広島駅 (*8) 方面まで一望に見渡される様になり、四方より火の手が上がり道端に立つ電柱が不思議なことに東側半分だけ上から下まで「メラメラ」と燃え上っている。

家の下敷きになり助けを求める婦人の悲鳴、下敷きからやっとの思いで這い出したが足を骨折のため立ちあがれず、這って半狂乱になりながら倒れた家に取り残された自分の子供の助けを乞う人、荷馬車が横倒しになり、左半身ツルツルに火傷し、強い光にやられたのだろう、乳白色に変色した目玉を剥き出しにして青息吐息の馬、と言った状況の中で火焼した人、硝子の破片で傷ついた人、すべての人が目標もなく、ただ群衆心理で市内から一歩でも離れようと言う意識が働くのか、仁保町の方に向かって人の群れが洪水にように走り出した。

川の中で手に付いた垢は、実は火傷した皮膚が剥げたもので、顔半分赤身となり、その上に潮水が付いたものだからたまらない。その沁み様は言語に絶し、居ても立っても居られない。苦しさを紛らわすために群衆の中に入り、皆と一緒に無意識に走り出した。

途中、上東雲町 (*9) (段原日出町) (*10) 辺りで救護活動をやっている学友と出会い、東雲町にある工業学校仮校舎 (*11) までたどり着く。勿論校舎は建っているが爆風でやられ、窓ガラスは一枚もない。

屋根瓦で頭に大怪我をした佐古田君と僕は、小川君に連れられて仁保にある町医者まで辿り着いたが長蛇の列、300人は並んでいただろうか。何時になったら手当てをして貰えるものやら見当がつかない。

顔の赤身(火傷)は「ヒリヒリ」と潮水が沁みてじっとしていられない。ゲートルの巻き上げ個所、膝関節の裏側が重い感じがして、ふと気づくとフンドシを残して素肌の見える裏股全部が火傷しており水泡が出来、その水が膝関節の裏側に溜まっているではないか。火傷の面積からすると相当な大火傷であることを初めて知る。

何時まで列に並んで待っていても順番は来そうにない。たまりかねて列を離れて、医者のいる診断室を覗いてビックリ。医者、看護婦、皆ガラスで怪我をしており、白衣を血で染め、鉢巻姿で治療しているが、その治療たるやお粗末なもの。ただ傷口に「アカチンキ」を塗るだけのこと。小さな町医者で全身大火傷した患者が300人も押しかけたところで、精々一人か二人を処理する程度の薬しか持ち合わしていないはずだ。「アカチンキ」でも付けて貰えば幸せとせねばならない。

これではどうにもならない、苦しさに耐えウロウロしていたところへ近所の奥さんが親切に湯呑みに菜種油を一杯持ってきてくれた。「これをその顔につけんさいや」と…。

診療室に忍び込んで脱脂綿を貰い赤身全体に塗った。今までの沁みようは何処へやら、すっかり楽になり、やれやれと漸く落ち着きを取り戻した。

何とかして横川の下宿先に帰らねばならない。町の中心は燃えている何処を通れば横川にたどり着けるのだろう。まず、高い所に登って市中の状況を偵察することにする。小川、佐古田両君と一緒に東雲神社 (*12) の山頂に登り、市中を見下ろすが市全体から煙がのぼり何処がどうなっているのかさっぱり解らない。丁度その頃1~2分間隔で連続的にものすごい爆発音が聞こえ、或るものは時限爆弾だから市中に出ては危険だと言い、また或るものは比治山 (*13) の兵器庫・火薬庫がやられて連続的に爆薬しているのだろうと言う。

そのうち爆発音が遠のくにつれ、段々と空腹を感じ出した。いつまでもじっと待っていても仕方がない。行ける所まで行こうと言うことになり市中に向かって歩き出す。先ず自分がやられたとおぼしき場所、大正橋まで引きかえす。弁当箱、学用カバン、帽子等探したが見当たらない。僅かに自分の書いた学習メモ数枚が、つぶれた家の玄関に散在しているのを発見した。自分が「これ迄か?…」と死の恐怖を感じた場所、すなわち実際にやられた場所を確認することが出来た。

何にせよ、今一度高い所に登って市内を見なくては、どちらに向かって歩いてよいのか見当がつかない。今度は、比治山に登ることにする。途中、段原町の家は、全てぺちゃんこになり、道は全部ふさがっている。仕方がないので倒れた家の屋根瓦の上を歩いて比治山の麓にたどり着く。

原爆が投下した8時16分は主人や子供たちを送り出した家庭の主婦が台所で朝の後片付けをしている最中の事、家の中でやられた人達は、火傷はないがガラスによる切傷や家の下敷きになり、骨折打撲傷を受け、逃げ場を求めて何千人となく比治山に避難している。頂上に登ると、山の西側は麓から頂上に向かった火の手が廻り、7合目まで燃え上っている。西側に避難した人たちは火に追われて頂上まで逃げのびて、その数、数千人も居たのではなかろうか。肉親の身を案じる婦人達が右往左往するのみ。

この頂上で見た生き地獄は筆舌につくし難く、原爆の前に如何に人間が「ひ弱」で、又逆にその威力の凄さを思い知らされた。蟻の群れを足で踏み潰した状態かな、とも思った。

火に追われ骨折し、歩けない人が命からがら山に這い上り、ズボンのお尻もすり裂けて血を流している。屋外で被爆したと思われる母子4人、奥さんは多分黒い服を着ていたのだろう全身火傷で顔は変形してしまって、誰だか見当もつかない。

苦しさのあまり土の上でもがき苦しみ、そのため水泡がつぶれ赤身となり、その上に砂がついて全身が黄粉餅の様。その横でこれ又大火傷をした父親が火傷に苦しみ泣き叫ぶ小さな子供を抱いて宥め、一方年上と思われる男の子は父親の膝枕で泣く元気もなく全身の火傷で虫の息。こういう姿を見て、初めて吾に返り、もし自分の家族がこの様な姿になったら一体どうなるのだろう、と今更の様に被爆の恐ろしさを身に沁みて背筋に戦慄を憶えた。

もし、普通の状態で自分が一人火傷したのであれば、(首から上、左半分、股関節より上、裏股全部)到底歩く気力も失い、重症患者として「担架」で運ばれたであろう。しかし周囲誰一人満足な体をした者はおらず、自分の火傷等負傷の中に入らない、かすり傷程度の感じで、自分の軽傷をむしろ、不幸中の幸いとさえ感じ歩き回った事を思い出す。

その後も尚横川の下宿に帰るつもりで、煙の少ない方向に向かって歩き続ける。たどりついた所が専売公社前 (*14)。ここで、負傷した兵隊さんが羅災証明を発行し「乾パン」を支給していた。

「とにかく危険です。これ以上市中にとどまることはやめて下さい。羅災証明を発行しますので乾パンを持って一歩でも市外に退避してください。」と言う兵隊さんの指示で横川の下宿は諦め自分の故郷、福山の方向に向かって歩き出した。親父に新調して貰った詰襟、一度手を通しただけで下宿の洋服懸けにぶら下っているのに残念だなと思いつつ歩き進める。

当然の事ながら広島では汽車の動きそうな気配もない。向洋 (*15) まで歩くことになる。東洋工業 (*16) の窓ガラスが全部壊れているのが印象的に記憶される。正確な場所は解らないが向洋の駅近くに呉の海軍基地 (*17) より救護部隊が派遣され、黄色い火傷用油薬「リバノール」の入った一斗缶をトラックで運ぶ込み、負傷者の治療に当たっていた。これぞ救いの神、と長い負傷者の列に加わり治療をうけることにする。「リバノール」の滴る「ガーゼ」を左顔全体に貼り付け鉢巻でしばりつけられて以来、独眼流となる。裏股も同様「リバノール」の付いたガーゼを当て全体を包帯で巻き付けた。

汽車をつかまえるには線路伝いが最も近道であり、道を間違えることもない、と言うことで今度は線路伝いに歩き出した。初めは足の包帯が邪魔で歩きにくく段々とずり落ちて来て膝の所にたくれるがそんな事にかまっている余裕もない。

暫くすると遥か向こうに汽車の煙らしいものが見え始めた。どうも海田市 (*18) まで行けば汽車が動いているらしい。自然と急ぎ足になる。汽車をつかまえる事が先決だ、とは言っても、膝の所にたくれた包帯が邪魔である。せっかく巻いてもらった包帯もとりはずし、無我夢中で歩く。最後の数百メートルは全速力で走り、煙を吐く汽車の最後部に飛び乗った。

飛び込んで落ち着く暇もなく2~3分後には「ポー・ポー」と言う汽笛の響きと共に汽車は動き出した。

被爆後折り返し運転第一便、出発時刻午後6時30分の事だった。自分の腕時計は文字盤に潮水が入り、午前8時16分でとまったまま10時間がたっていた。

とにかくこれで被爆中心地を離れ「家に帰れる」と思うとほっとした安心感と一日の疲れから座席に寝そべりウトウトしたのも束の間、内股の肉を引き裂かれる様な痛さに飛び起こされた。二人掛けの汽車の椅子に横になってウトウトしているうち、無意識に寝返りをしたらしく、内股の赤身がシートの羅紗地に食い込んでいるのを引き離そうとしたための痛さである。

早く福山に着かないかなー、立ったり座ったり何度繰り返したことか。腰を下ろしてもせいぜい1~2分で赤身と羅紗がすぐ仲良くなって離れたがらないので、ゆっくり座っている訳にはいかない。普通なら4時間位で着く距離が今日は汽車がなかなか走らない。5時間半もかかってやっと真夜中、福山にたどり着いた。

同級生の時計屋の息子、相川君の家まで約10分ほど歩く。夏で暑いのと毎晩の防空警報で親父さん、お袋さんまで涼台で近所の人と涼んでいる。

「親父さん、自転車貸して下さい。」と言っても独眼流の鉢巻姿で誰だか解るものではない。

「お前はいったいどうしたんや。」

「小畠です。広島でやられて、今、一番の折り返し列車でかえって来たばかりです。とにかく大変な爆弾ですよ。汽車の中の話しでは空中魚雷ではないか、と言った人がいましたがピカーッと光った瞬間こんな火傷です。白いものを着ている所は火傷していません。家の中にいた人は火傷よりは、くずれた家の下敷きになったり骨折した人が多いのでは…。」等…、先輩ぶった話もソコソコに自転車を借りて家に向かう。(約30分)

勝手知った門の横から手を入れて閂をはずし自転車を門の横に立てかけ、急いで玄関の戸をたたく。そこまでは憶えているが後のことは全く記憶にない。

母の話しによれば「オカーサン、オカーサン」と呼ぶ声で眼が覚め、僕の呼び声であることがすぐ解った。急ぎ足で玄関に行き戸を開けると同時に母の足元に僕が倒れ込んだ。「豊康」「豊康」と言う母の呼び声に、父、祖父、兄弟、皆飛んで来て、「どうした…しっかりしろ」と大騒ぎになる。抱き起すと「ヤラレタ―」と言ったきり 「スース―」眠るだけ。どうなったのか、さっぱり分からない。真夜中、戦争中の田舎のこと、すぐ連れて行く医者もなくとりあえず寝かせる事にする。

怪我はしたものの若さと気力で朝から14~15時間かけて家までたどり着き、ヤレヤレと言う安心感と疲れで玄関の戸にもたれ眠ってしまったのだろう。何はともあれ全く記憶がないのである。

翌朝隣町、日野医院に連れて行かれる。医者の治療は至極簡単で亜鉛化をオリーブ油で溶かしたものを赤身の部分に塗るだけ。それよりも被爆の状況に興味を示し、それで...それから、と次々に質問攻めに会う。

その夕刻から発熱が始まり、医者の往診を受けても、毎日40℃近くの高熱が続き、譫言を言うようになる。高熱のため医者にもらった火傷薬はすぐ乾き表面が蓋の様になり、下から膿が盛り上がり苦しさのあまり無意識の中に掻きむしり一時も目を離されない。24時間不眠不休の母の看護が始まる。

翌日の晩、8月8日は福山が全焼する。高熱にうなされながらも障子がポーッと明るく照らされて、「焼けているな」とおぼろに意識する。

一種異様な臭いと青白い膿が下から噴き出して、段々赤身をけずり取られている様だ。これこそ本当につける薬がない。沢山の見舞客の中に「騙されたと思って使ってみて下さい。」と言って4合瓶に入った水薬を届けてくれた人があった。

これは実はきゅうりの茎より出る水液を集めたものだった。このおばさんは毎年火傷薬として菜園に植えたきゅうりが終わりになると茎を20~30センチの所で切り、ビール瓶に差し込んで茎から出る汁を集めて火傷の常備薬としている。「そんなもの効くものか」という父の目を盗んで夜半これをガーゼにしませ、傷口に当てる。今まで高熱にうなされ譫言で苦しみ通した息子が、これを付けた途端気持ちよさそうに眠りだした。こんなに苦しむんだから顔はどうなろうとも命だけは取り止めてくれればそれでいい。気持ちよく眠りだした病人を前にしてこの液を使う事に決める。

40℃の高熱のため30分もすればすぐガーゼが乾燥してしまう。しかし不思議なことにこのガーゼは青白い膿を全部吸い上げ、傷口が非常にきれいになるではないか。その上熱を吸収するらしく、今まで苦しんでいた息子が気持ち良さそうに良く眠る様になる。

30分置きにガーゼを交換するので、少々のきゅうりの液ではすぐ無くなってしまう。貰った4合瓶も殆ど底をつく頃、母は考えた。きゅうりの茎から取った汁ならきゅうりそのものでもいいのではなかろうか?きゅうりを大根下ろしで下ろし、これを搾って汁を取り代用する様になった。特に変わった悪効果もなく、どうもこれでも良さそうだという自信を持つ。そのうち、30分置きの交換ではとても続かなくなる。苦肉の策である。大根下ろしで下した「きゅうり」そのものをガーゼに挟んで傷口に当てる。なる程これならそう簡単に乾燥はしない。又々不思議なことに、きゅうりの中に膿が全部吸い取られて前よりも効果的である。この様に母親の独創薬きゅうり療法により、全く傷跡もなく完全に全快することができた。このきゅうりの療法がなければ整形外科のお世話になったかもしれない。いつの日かきゅうりの効用について現代科学による解明をお願いしようと思っている。

高熱は2週間近くも続いたが、8月20日頃から段々高熱も下がり落ち付いて、ぶらぶらできるようになった。9月いっぱい寝たり起きたりしていたが非常に不思議な現象が現れてきた。屋外に出て太陽光線に当たると発熱するのである。その頃広島で被爆した人、親兄弟を探しに広島に行った人が帰って来て火傷、怪我のない人まで次々に死んだという話が伝わって肉親の心配は大変なものだった。

結局、岡山 (*23) 医大で精密検査をしてもらうことになる。検査の結果は白血球が2,100位に減っているので野菜を沢山食べるように言われ、朝、昼、晩、食卓に「ニラ」が出る様になった。「ニラ」探しが祖母の日課となった。遠く離れた山畑を探し廻ってくれたようである。10月になってやっと自分の顔を見ることができた。と言うのも家の中の鏡と言う鏡全部何処かに隠してしまい、僕の顔が見られない様にした母の心遣いからである。おそらく治る途中の僕の顔は相当見難い顔であったに違いない。何か月ぶりかで初めて見た自分の顔は真っ赤で丁度猿のお尻と同じであった。

11月になり熱も出なくなり、再び学校に戻る事ができた。