広島平和記念資料館に寄贈した被爆記録とゲートル

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1945年8月6日。たった一つの原爆投下で広島市は全滅しました。(イメージはasahi-net.or.jより)

広島平和貢献

今日の広島平和公園

2014年の秋、広島平和記念資料館を訪問しました。それには目的が二つありました。

一つ目は父の被爆記録とその英訳を広島平和記念資料館へ寄贈するためです。元々、1994年に父は被爆記録を父の住む神奈川県の原爆関係事務所に提出しているので、自動的に広島にある資料館に保管されている、と私は勝手に思い込んでいました。ロンドンの王立戦争博物館、またワシントンDCのスミソニアン国立航空宇宙博物館には2000年より投稿・保管されているものの、ひょんなことから日本の資料館にはまだ保管されていないことが判明しました。父が被爆記録を書いて以来20年という長い歳月がたってしまいましたが、遅ればせながら広島にも投稿・寄贈することができました。そして、2015年4月より父の被爆記録と英訳は国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に正式に収蔵していただいています。

父の原爆被爆の記録

もう一つの目的は父が被爆時、巻いていたと思われる『ゲートル』が広島平和記念資料館に保管してあることを知り、それを確認するためでした。

被爆して生死をさまよう、大火傷を負った父の姿は見るに見られぬ姿だった、と聞いています。父が自分の姿を見てショックを受けないよう、父の母、つまり私の祖母が家にある全ての鏡を隠した、と聞いています。父の被爆記録を読んで頂けばおわかりになると思いますが、身体だけでなく、想像を絶する悲劇的な体験は父の心にも深い傷を刻み、この記録を書くまでは、父は被爆の詳しいことは誰にも語ったことがありません。心を痛める父を気遣って、原爆を語ることは家族の間でも『禁句』だったそうです。

父は被爆体験について一生、語るつもりはなかったそうですが、『事実を記録に残すことは被爆者としての債務だ』という周りからの言葉に考えを改め、被爆後50年がたって初めて、過去の悲劇を整理して記録に残すことにしたそうです。

そういう状況だったので、父はもとより、父の親戚からも原爆に関しては、今まで私はほとんど何も聞いたことがありません。ところが、2014年の一時帰国の時、たまたま叔父と話していた時、こう話してくれました:

『40年前にこの家を建て替えた時、色々なものを処分したんよのう。その中に兄さん(私の父のこと)が被爆した時に着ていたボロボロに燃えた国民服や足に巻いていたゲートルもあってなあ。その頃には兄さん、アメリカで働くくらい元気になっとったから、もうええじゃろう、と他のものと一緒に処分したんや。ところが、処分したはずの小さく巻かれたゲートルが、あとで家の引出しから出て来たんよ。お袋にとってはかわいい息子がやっと生き延びてくれたし、手放しとうなかったんじゃろうなあ。お袋がこっそりゲートルだけ拾って箪笥の引出しに仕舞ったんじゃろう。だから今はそのゲートルは広島の平和記念資料館にあるんよ。』

初耳でした。あとで父にこの話をしたら、父も知らなかった、と。父の命を救ってくれたかもしれないゲートル、是非この目で確認したくて、広島の平和記念資料館に連絡を取ることにしました。

ところが、時間がたっているせいか、残念ながら資料館には父の名前で進呈されたゲートルは確認が取れませんでした。ただ、どなたのものかははっきりしないけれど、ボロボロになったゲートルはいくつか保管されてある、ということだったので、父の目で確認してもらうことにしました。

資料館のある広島市に母の兄弟が住んでいますので、せっかくの機会なので叔父や叔母たちと共に父と資料館を訪問しました。

父と叔父叔母たちと

広島平和記念資料館を父と親戚と訪問。 (左から晧代叔母さん、豊子叔母さん、後ろに私、父、そして達也叔父さん。)

広島平和記念資料館で私達を迎えて下さったのは学芸課の下村さま。

Dad & Shimomura san

父と広島平和記念資料館の下村さま

案内された部屋には、焼けてボロボロになった布きれのようなものが長い机の上に展示されていました。近づいて良く吟味すると、ところどころ血が染まったような形跡のあるゲートルでした。このゲートルを皆で囲みながら、父の書いた被爆記録に基づいた質問に答えながら、かれこれ、一時間近く、父は被爆した当時のことを話してくれました。被爆当時の話を父の口からあれだけ詳細に聞いたのは初めてでした。もちろん叔父や叔母たちも初めてだったし、下村さまも直接伺うことが出来たことに感謝すると共に、被爆者の方々の壮絶な体験を思い、胸が詰まったと語っていらっしゃいました。

実は今回の訪問をきっかけに初めて知ったのですが、父が巻いていたゲートルは既製品ではなく、私の祖母の手作りだったそうです。物不足の戦時中、ましてや当時父はまだ学生だったので贅沢はできない、と祖母が帯を解いて、中の帯心を出して、それをゲートルの色に染め、縁をまつって作ったものでした。

父が巻いていたと思われるゲートル

父が巻いていたと思われるゲートル

父が巻いていたと思われるゲートル

本来、父のゲートルは左右両方とも残っていて、左側から被爆したため、左足に巻いていたゲートルは焼けてボロボロ、右側はほとんど元の形を保っていた、と父は話していました。拝見したところ、たしかにこのゲートルは既製品ではなく、帯心で出来ているように見えるし、手作りに見えます。ただ、名前を入れていたわけではなく、70年も前のものなので変色しているしボロボロ。自分のゲートルのようには見えるけれど、絶対に自分のものだとも確定できない、と父。血の痕跡も残っている様子なので、DNA鑑定をすれば誰のものかがわかるのではないか、と思う私でしたが、

『そこまでしなくてもゲートルがパパのものであってもなくても、どっちでも良いと思ってるよ。パパの被爆記録を寄贈できただけで十分だよ。』と話す父。

今回、資料館の訪問を終えた時、

『今日はあの時の話をしたから、忘れていたことが甦って来て、やっぱり嫌だなあ…。 』

と、辛い表情でぽつり漏らした父の言葉に、辛い思いをさせてしまい申し訳ない気持ちになりました。そして、わざわざDNA鑑定までする必要はない、と強く決心した瞬間でした。

平和記念資料館としても、確定する証拠がはっきりしないため、父のものとして正式に展示することはできない、ということでした。でも父は全く気にしていません。もし、この『父のものであろうゲートル』を拝見されたい方がいらっしゃれば、広島平和記念資料館に前もって連絡を取っていただければ、拝見させていただけると思います。

広島平和記念資料館

広島平和記念資料館

今回、めったに会えない母方の叔父や叔母たちと一緒に平和記念資料館を訪問し、父の記録を寄贈できたことを母は喜んでくれていると思います。また叔父や叔母は、顔も、明るい性格も、母そっくりなので、あたかも母と一緒にいるような暖かい気持ちにも包まれた嬉しい時間でした。

また、訪問した際、本当はいけないのかもしれませんが、祖母の手作りのゲートルの隅をほんの少し触ってみました。(資料館の皆様、ごめんなさい!)でもあのゲートルに触れたことで、祖母と再会したような嬉しい思いに浸ると共に、父の命を救ってくれたゲートルと、そのゲートルを作った祖母に『どうもありがとう』と改めて感謝の念が募りました。

原爆投下70周年を前に、父のゲートルについて情報収集に協力してもらった卓治叔父さん、従妹の明ちゃん、久子叔母さん、そしてミチコ叔母さんに改めて、感謝の気持ちを伝えたいと思います。どうもありがとうございます。

小畠利子

image from hiroshimalove.com

被爆前の原爆ドーム。元々は広島県産業奨励館だったそうです。(イメージはhiroshimalove.comより)

原爆ドーム

今日の原爆ドーム